きむらとしろうじんじんx高井節子インタビュー
ルームシェアをしながら,RCAの別校舎でそれぞれの生活を過ごした二人。当時の記憶を辿りながら,丁寧に,現在と留学経験の関係性を語ってくださいました。
(聞き手:橋爪皓佐)
RCMにおけるアート,建築とは?
じんじん:当時はそんなにきっちり認識はしてなかったけど,RCAっていうのは,ヨーロッパにおけるアートワールドってのがちゃんと存在する,アートというジャンルが自明のこととしてある,っていうのが大前提の大学院大学でした。ロイヤル・カレッジ・オブ・アートなんだから当たり前っちゃ〜当たり前なんだけど(笑)。それにショックを受けましたね。きっと反発も羨望も両方あったけど,今思い返すと,お腹の底の深い所では違和感の方を強く感じていたと思う。僕は彫刻科に行ったんだけれど,RCAの学生って,入学したら即座に2年後のディグリー・ショー(修了制作展)でアートワールドにデビューするために,はっきりした目標を持って,すごく集中した時間を過ごしているっていうのが,一番印象に残った。今はどうかわからないけど,僕が在籍してた頃の京都芸大って,アートがそんなに自明と感じられる場ではなかったと思うんですよ。なんかこう,あるようなないようなモヤモヤしたものを,ただただ学食の前でタバコ吸いながら3時間ぐらい喋ってるとかね(笑)。後から振り返ると,RCAに行くことによって京都芸大ってのが相対化されたのと同時に,京都芸大における自分っていうのを持った状態でRCAやロンドンのアートシーンを見ることで,アートワールドというものをすごく相対化する,両方の側面があったと思うんです。結果,ヒエラルキーがはっきりした中,皆がディグリーショーに,アートワールドに向かっていくRCAの学生達の歩みってのが,なんか自分に合ってないなぁと感じていた気がします。もちろん当時はこんなに整理された感想なんて持ってなかったですけどね……なんか違和感があった気がする。京都芸大で4年間育てられてできちゃった気質なのか,それとも自分のタチなのかどうなのかわかんないですけど。
それは僕のその後の活動にきっと影響があったと思います。 卒業したあと,セクシャリティやエイズにまつわるNGO活動を始めたり,インディペンデントのアート&コミュニティーセンターの運営に関わったり,滞日外国人支援のカフェの立ち上げに関わったりとか,自明とされてるアートというジャンルにはきっちりと着地させられない何か,みたいなものにずっと関わり続けながら,結局今は屋台引っ張って路肩に立ってる……みたいな自分の在り様に,きっと影響はあったんだろうなと。
アートを自明としてるのがいいのか,自明としてないのがいいのか,なんてことに関する結論なんて僕は持ってないんですが,でも明らかに京都芸大とRCAはやっぱり違ってて。本当は大学院生って立場で言ったら,アートに対するそんなモヤモヤは,学部生のうちに解決しとけよって話なのかもしれないですけどね。それを解決した後, 国際交流って意味で京都芸大とRCAの大学院生が交換されるってのが制度って意味での交換留学としては正しい形?充実したかたちって言うのかな?
橋爪:滞在中はそういったことが辛く感じましたか?
じんじん:ロンドン行ってもやっぱりぐずぐずしてたけど,ただそのぐずぐずした時間が辛いって言ったらそんなことはなくて。
橋爪:なるほど。制作はいかがでしたか?
じんじん:結局RCAではほぼ制作してないですね。でも友達はできたからパブにビール飲みに行って……多分パブに居た時間の方が長かったような気がする(笑)。制作はしないけど,そんな時間を過ごしてた中で,ゴニョゴニョ考えたことは,きっと後から自分がやることにはすごく反映されているから,留学生としてどうだったかは分からんが,すごく重要な経験をさせてもらった。せっちゃんは建築で,AAスクールにも顔を出しつつ,そんな中で京芸の環境デザインでやっていた建築っていうものの見方・考え方が,向こうに行って視点が変わったり相対化されたような感触って何かありましたか?
高井:そういう意味ではRCAより,AAスクールっていう建築の学校のほうがあったかな。AAスクールは大英博物館の近くにあって,何回か足を運んでいたんだけど,そこでやっていたコンセプチュアルな建築の表現は,京芸にはなかったんですね。 環境デザインではそこまでそういうことやっていなかった。そもそも京芸って美術とデザインが近いから,そういうような種はあったんだけど,それを建築として表現するっというのは自分の中にあまり意識がなかったから,すごい刺激的だった。それに対して,RCAではメジャー・ドローイングといって,古い教会とかを測って製図させられて,クラシカルで 基礎的なことをやる課題があったり,古典をとても大事にしていて「あ,王立だからか!」とか変に納得していた。こんなとこでも基礎を大切にしているんだっということで,ちょっと自分の足元がちゃんと確認できた。課題の趣旨のような事を考えずに,京芸では自分の表現みたいなものを追求しようとしてたけど,建築ってそもそも日本でもヨーロッパでも,やっぱり歴史的に生活の中の様式美みたいなものがあって,その上に成り立ってるもんだなって。それをとても大事にしてるんだなっていうところが課題から受け取れて,自分が忘れかけていたものを,もう一度そこで思い出した,みたいなところがあったかな。
じんじん: 記憶がおぼろなんやけど,そのAAスクールに見学に行った時にすごく興奮してたのは覚えてるねん。僕は建築の知識ないから,せっちゃんの言ってたことはもちろん理解はできないけど,すごく興奮してるなって思った。
高井:すごい面白かった。合評とか覗いてみたときに,その時は椅子の合評だったんだけど,普通の椅子じゃなくて,チューブで椅子が形成されてて,それが構造体になっていてその中に水がびゅーっと流されてて。そんな作品が建築だっ!ってやってて...なんだこれは?って最初はなったけど,「なんだ,それでいいんだ!」って。逆に自分が,京芸でアートとデザインの間に線をわざわざ引いてたことが,「あ,なんだ線ひかなくてよかったんだー」ってちょっと思った。
じんじん:そういう意味では違う経験をしてるのかな。
僕はアートワールドっていうすごく確立された世界があるのだっていうのを,RCAで感じたっていう側面が大きくて。それに対して,京芸の「ぐずぐず・もやもや」がもう1回浮かび上がってくるみたいな。その当時京芸で立ってた場所のことなのか,もしくはなんで陶芸で行かへんかったのかとかもね。すごい僕の内面的な問題だと思うんですよね。京芸の陶磁器専攻の栗木達介先生から「なんで木村くん陶芸科にいかないんだね!(怒)」って,ほんとギリギリまで,陶芸科で行くべきだって言われてて。今になれば栗木先生が仰られたことはすごくよく分かるんですよね。せっちゃんが言ったような意味でも,RCAの陶芸には,陶芸のすごくしっかりした文脈と歴史と思想みたいなものがあって,何で京芸で陶芸やってるのに,それを受け取りに,あるいは手渡しに行かないんだ君はって。すごくわかるんだけど,それはさっきの僕の内面の問題になるんやけどね。
高井:ちょっとひねくれてたんですかね(笑)
じんじん:ひねくれてたってのとね,今振り返って考えたら,やっぱただただ外国に行きたかったっていうすごく単純な部分と,多分,逃げたかったっていうところもあると思うんですよね。甘えてたって本当に今になってみると思うんだけど,学部で四年間やってきて,同級生たちが,もちろんそれぞれの葛藤を抱えてるわけだけど,僕から見ると,自分の中から湧き出すものがある,本当に湧き出すように,おおらかに色んなことをしているように……僕から
は見えてる人たちが沢山いて。
高井:じんじんは自然体にしてるように見えたけど……
じんじん:べたな言い方やけど,才能あふれる周辺の人たちを見ながら,一瞬そこから離れて,少し,とにかく間を置きたい。院生が言うセリフじゃないんだけど。
高井:それはめちゃくちゃ感じてた。じんじんは気晴らしにきたんやなって。
じんじん:そういう側面はすごい大きかったと思うんですよ。ほんま,あかんたれな話ですが,こういう話もインタビューに載っていいですよね。その側面が8割,9割やったと思う。だから栗木先生から見たら「なんでそこで逃げるんだ君は」ってのがあると
思う。でも,さっき冒頭で言ったように,僕は彫刻で行ってパブでビール飲んでて,RCAや京芸における現代陶芸って文脈や歴史や考え方から思いっきり離れた場所に居て,いや,居たくて,たぶんすごく違うものを受け取って帰ってきて,それは良かったのか悪かったのか僕には分からんけど,結果として今の自分とはすごく繋がっているなぁと思いますね。すごくそんな気がしてて。
環境デザインの内海先生のとこに,留学行く直前ぐらいに二人で挨拶にいった時,内海先生は「今の年齢で海外に出るのがいいことなのか悪いことなのか,よく考えた方がいい」みたいなことをせっちゃんに言ってたのを良く覚えてんねん。先生の中でも結論はないんやろけど。
高井:問いかけとしてね。
じんじん:ひと言言いたかったんやろなって。それも凄い印象に残ってる。
高井:そうなんや。私が覚えてないこと覚えてるね!
出国までの経緯や心境
橋爪:当時海外に行くってどんな感じだったんですかね。今のネットで自分で手配して行けちゃうっていう感覚とは少し違うと思うんですけど,変な話,飛行機も高かったですか?
高井:じんじんはすごい高かったよね。高いので行かなきゃだめだったんだよね?私は格安で行ったけど。
じんじん:なんかの事情があったんだよね。たしかブリティッシュエアで。
高井:たぶん成績が良かったから,奨学金でブリティッシュエアで行かないといけない枠だったような気がする。私は,あなた2番手だから,お金あげるから勝手に行きなさいって感じだった。
じんじん:笑けるぐらい高かったですよ。奨学金100万円のうち半分はいかんけど,30万とか。
橋爪:ほぼ正規のお値段ですね。
高井:私は20万くらいだったかな。
じんじん:海外の感覚か……今の若い人の海外に対する感覚はもちろん僕には分からんけど,でも当然今より情報は少なかったし,調べる手段も少なかったから。
高井:ネットも無かったしね。本からの情報だったからね。
じんじん:地球の歩き方みたいな
高井:そうそうそう!(笑)
じんじん:そういう意味ではファンタジーも巨大でしたよね。勝手に持ってる,ヨーロッパファンタジーとか,ロンドンファンタジーってのは大きかったと思います。
橋爪:今の学生達にメッセージを伝えるという意味でも,当時の経験も,俗っぽい部分や個人的な経験も含めて教えていただけたらなと思うのですが。
高井:あんまりプレッシャーが無かった気がする。わたしはRCAの面接のときに,ロンドンに関する観光ガイドブックをひたすら読んでて,それを見たじんじんに,あの時にせっちゃんはもう行く気になってたから面接通ったんやって言われた。
じんじん:そうやったっけ?(笑)
橋爪:もうイギリスでどこ行こうかなって準備されてたんですね。
高井:そもそも受かると思ってなかったんだけど,ここ行きたいとか,あれ見たいとか,とりあえず観光ブックで見てて,ちょっと軽いノリ。そんなに構えてはなかったかな。
じんじん:僕もそういう意味では軽いノリ。なんで軽いノリだったかって言うと,芸大の方も,そんなに制度として整備できてなかったよね?面接してる先生方も良くわかってないというか,何を基準に選んでいいか多分わかんなかったんだと思う。違ってたらごめんなさい(笑)。内幕は全然知らないけども,当時はまだ陶磁器専攻からは行ってなかったから,僕行けたんだと思うんですよ。
高井:私もデザイン科から初めてだった!
じんじん:彫刻と造形構想行ったから,次は陶磁器とかそんな感じで。もちろん当時の先生方に訊いてみなわからんと思うけど,大学院大学との交換留学に対するはっきりしたビジョンは当時はそんなになかったんじゃないかな。違ってたら重ね重ねごめんなさい。僕らはそんなんあんの?行けたらラッキーくらいのもので。帰ってきたヤノベさんとか南くんが,おもろかった!ってやっぱり言ってるし。行けたらラッキーていう感じだったんですよね。
橋爪:先輩に話を聞いてっていう影響はやっぱりあったんですね。
じんじん:僕の場合はその影響あるかな。
高井:私はデザインの先輩では(経験者)いなかったけど,高井一郎先生っていう方がデザイン科にいて,その先生が交流を推進していて,先生から話を聞いてたっていうのはあったけど。実際むこうの建築科でどういうことをしているとか,何を得られるかとか,そこまで考えてなかった(笑)。
じんじん:僕も全然知らんと行きましたね。しかも彫刻で。全く情報が無い中。
橋爪:なぜ彫刻を選んだんですか?
じんじん:それがさっきの話に戻りますけど,とにかく陶磁器科じゃないとこで行きたかったっていうね。冷静に振り返るとそれが一番おっきい。もちろん当時は自分の中で理屈をたくさんつけてましたよ。どんな屁理屈をつけてたのかな?何人か好きなイギリスの作家もいたし,彫刻で。 リチャード・ディーコンとか。そんなにちゃんと追ってなかったけど,ヤング・ブリティッシュ・アーティストとか,若い彫刻家達がロンドンでブイブイいわし始めてた,
ちょうどそんな年代なんですね。でも僕の場合陶磁器科じゃない学科に行くための理由を自分の中に作ってた側面の方がやっぱり大きい。否定的に言ってるんじゃないですけどね。卑下してるわけでもないし,謙遜してるわけでもなく,そうやったな〜という。
高井:でもルーシー・リーに会いたかったんでしょ?
じんじん:じゃあ陶磁器で行けよって話だよね!(笑)ルーシー・リーっていう僕の大好きな陶芸家がいて,僕が学部生の頃に日本で大々的に紹介された時期があったんですよ。今もまた第3次ブームみたいになってるけど。すごい可愛らしいおばあちゃんで,ものすごく魅力的なものを作られる方で,ロンドンにいるから。ルーシー・リーに会いたいってのは,それはねじけてない理由ですね。ルーシー・リーの作品見たかったってのは大きかったですよ。だから,彫刻科で制作はしてなかったけど,ギャラリー・ベッソンっていう,ルーシー・リーの作品たくさん持ってるギャラリーにずっと通ってて。ちょっとオーナーと仲良しになって,作品触らせてもらったりとか,そんなんはしてました。
高井:結局会えなかったんだよね?
じんじん:もう体調悪くされてて,そっから何年かぐらいで亡くなられたんです。マルティナ・ マーゲッツ(Martina Margetts)さんやったっけ? RCAで工芸史の授業を担当されてる方がいて,その方の授業も聞きに行って。彫刻科(所属)だからわざわざ潜って行くみたいな。だから陶磁器で行けよって話なんですけど。マルティナさんにもルーシー・リーさんに紹介してってお願いしたんですけど「数年前ならよろこんで紹介できたけど,今は本当に体を悪くされてるから,人に会ってもお話できる体調ではないから諦めてくれ」って言われて,諦めたりとか。そんなのはしてたんですね。でも彫刻科で行ったんですよね。
現地での心境や生活,日英「捉え方」の違い
橋爪:お話を聞いていると全然逃げたという感じはしませんけど。
じんじん:「ある人の作品が好きや」って素直に感じることと,「自分の表現を」って机上で力みまくってる観念的な芸大生としての自分と,実際に手や身体を動かして物を作ることが,僕の場合は,今はどうかわかんないけど,当時はまったく素直に接続できなかったんでしょうね。もう,あっちゃこっちゃ,バラバラ。どうしていいのか,まったくわからんかった。色々,余計なことをたくさん考えて,自意識過剰で……多分一番 ナイーブな時期じゃないですか院1ぐらいって。
橋爪:RCA終ったら,次外に出て何かしていかなきゃいけないって時期の葛藤みたいなのを他の皆さんへのインタビューでもちょうど伺っていたんです。高井先生はいかがでしたか?
高井:私は割と素直な子だから(笑)典型的な,外国に行って,素直に「そっかー!」って感動して帰って来るタイプだったから。あんまり葛藤はしてなかったかもしれない。素直に受けることは受け取って,日本に帰ったらもっとこういうこと勉強しよう〜みたいな感じだったかな。
じんじん:それが一番まっとうな留学生活というか。ほんとうにそう思うんですよね。
高井:とはいえ課題には追われてたから,難しさはそれなりに経験したんじゃないかな。言葉が通じないとか,手法が違うとか,それこそ考え始める起点が違うとか,発想する時の感性とか,造形感覚の違いを,あぁ〜そうか〜って肌で感じて,戸惑いも発見もあった。
じんじん:それって面白いな。感性の違いっていうのは例えばどういうところに?
高井:建築でも,私だったら中身から,内側から考えるんだけど,イギリスの人たちは彫刻的な外観というか,外側のフォルムから考える人が多くて。だから出来てくる作品が,まず外観を意識した格好いい形になっていて。私は中の空間を考えてから,そこに壁や柱を立てていくみたいな感じでやってたんだけど,そのプロセスが,ほんと真逆。イギリスの人たちは建築を彫刻?立体物?塊として捉えてるんだけど,私はどっちかというと器というか,空間を包むものとして捉えてたんで。その感覚は圧倒的に違うなぁと思った。
じんじん:それはほじくっていくとめっちゃ面白い話になりそうな気がする。イギリスはね,ろくろを挽く時に,外側からコテをあてるんですよ。日本は内側からなんですよ。内側の形のコテをあてる。イギリスの人らは外側からコテあてるの上手いし面白いし。これは掘っていくと,かなり厄介かつ面白い話。
高井:そういう,違う感覚みたいなものをちょっとずついろんなところで感じて,劣等感も感じたり。ちがう課題だったら,私は日本人としてうまく出来ることもあるかもしれないと思ったり……してたかなぁ?
じんじん:まっとうやわ。交換留学はそうあるべきだと僕は思ってしまう。
高井:でもやっぱりよかったのは,じんじんがアートとか,陶芸とか,自分と違うジャンルのことをやってたことかな。じんじんから学んだことは多いね。それこそルーシー・リーに会えなかったとか,病気やねんてって凄いショックを受けてた顔とか凄い覚えてるね。
橋爪:同じアパートに住んでらしたんですよね?その話もちょっとお聞きしたいです。フラットシェアみたいな感じですよね?
じんじん:そうそう。今思えば別々に探してもよかったよね。なんか弱気やったんかね?不安やったんかなお互い。どうやろう?
高井:どうでしょうね。物価が凄い高かったから,なんせ。割と良い場所に住もうと思うと値段が高かった。14万ぐらいじゃなかった?結構したよね。
橋爪:どのあたりに住んでらしたんですか?
じんじん:クラレンドンロード?(Clarendon road)ハイドパークの北西側くらいの感じやったっけ?まぁ街中ですよね。バタシーは遠かったんやけどね。でもバタシーあたりよりは,あの辺で暮らす方が経験としてはね。
高井:ギャラリーや美術館巡りもすぐ行けたからね。私,歩いてケンジントン校舎に通えたもん。ハイドパークを突っ切って通ってた。ベースメントフロアだったかな?昔ながらの半地下の家で,貴重な経験だったなと思います。
橋爪:公園も近いし住みやすそうですね。
高井:そういえば公園でおじいさんに話しかけられて,英語の練習だと思って話して,迂闊に電話番号教えちゃったら,つきまとわれるようになって,しつこく電話かけて来るようになっちゃって。それでじんじんが怒ってくれたよね。電話で「Never call again」って,がちゃんて切って。
じんじん:あったねぇ。
高井:そう。だから保護者だったの。
じんじん:いや,僕も心細かったんだよ,一人で住むのは。
橋爪:それでもお互い外でそれぞれの時間を過ごしてって感じでしたか?
じんじん:もちろん,当然部屋も別々だし,行動パターンも違うし,僕は(テムズ)川向こうのバタシーキャンパスだったし,行ってる場所も違うし。二人ともずっと家でって言うよりは,外で過ごす時間の方が長かったと思う。
高井:家の中では,私は課題をやってたし,よく夜なべして。
じんじん:さっき課題の話で思い出したんやけど,今思い返すと,ほんま謝らなあかんのやけど,ほんまごめんな。キッチンのところが僕の部屋で,僕喫煙者やからタバコモクモクふかして,だらだらしてんのよ。それでせっちゃんは奥の部屋で,凄くちゃんと課題とかやってて。ほんま申し訳なかった。
高井:寝室として使っていた奥の部屋があったけど,そこは照明が暗くて,キッチン横の階段の下のトイレの横でやってたから,じんじんが寝たいのに,私が電気をつけてる時があったから,悪いなと私も思ったもん。ガチャガチャ音立てながら,部屋が暗いからここで製図する!って言い張って。
じんじん:今思うと凄く反省することがね。
橋爪:お互いに思いやってという感じですね。
高井:いやあ,当時はルームシェアがちょっとめんどくさくなってる時もあった。友達もたくさん来てたもんね。
じんじん:そういえば誕生日パーティーとかもね。彫刻科の友達が誕生日パーティーしようって,そのベースメントフロアでみんなで騒いでたら,ちょうど上の階の大家さんも誕生会をしてた時で,ものすごく怒られて。大家さんのお母さんが誕生日で。彫刻科のみんながうちにきてワーッと騒いでてね。凄く怒られて,あとで謝りに行って。すごい覚えてる。
高井:お寿司パーティー一回やったよね。
じんじん:それが誕生日パーティーの時やね。
(当時の写真を見ながら)
高井:着物を持って行って着てみたり。
橋爪:着物とか凄く受けたんじゃないですか?
高井:それがそうでもなかった。それがなんだ?って感じで
じんじん:いや,受けてたんじゃない?でも誕生日パーティー楽しかったよね。
高井:確か私がお寿司に,すし酢と間違えてみりんかなんかを入れて,すごいまずかったって言う記憶が。
じんじん:そうだったっけ?美味しかった気がするなぁ。
(色々と写真をみながら)
じんじん:友達はたくさんできたんですよ。全然制作はしなかったけど。バタシーで,彫刻科の友人たちと喋って「としろうパブ行くかっ」て誘われて。僕の制作スペースはちょっとスケッチが壁に貼ってあるだけで,ブロンズのキャスティング(鋳造)やったことないからって,やらせてもらったり,ガラスの鋳造もしたことなかったから,その原型を作ったりはしてたけど,バタシーの校舎ではただうろうろしてただけで,彫刻科の先生も今思うと扱いあぐねてた面はあると思うんですよ。日本から来て,ポートフォリオ見ると陶芸で巨大なオブジェ作ったりしてるらしいけど,そういうのをやり始めんのかと思ったら,ずっとモジョモジョしながら,ちょっとスケッチしたりしたまま。でも校舎にはいなくて,外出てて,でも学生達とはどうもやり取りはあるみたいだけど……って。もし先生の立場だったらきっとすごく心配になるだろうな。こいつ,どういうつもりで来たんや?どうするんやろ?って。
いっぺんね,中間面接みたいな感じの時に,モノをもうちょっと作ってみたらどうやって話はされたんですよね。僕,あまり上手いことは答えられなくて,ごにょごにょ言うてたような気がする。先生からみたら,心配してただろうし,経験としてせっかく来たんだから,具体的な作業そのものをもうちょっと手がけてみたらどうだって。 今,僕でもそう言うと思うんですよね。 もうちょっと手を動かして,もうちょっと身体を動かしてみたらええんちゃうのって。でも当時の僕にはできなかったんだろうなと思うな。でも彼ら(彫刻科の友人達)に多分救われてたんですよね。
高井:仲良くしてたイメージがあるね。
じんじん:話が戻るけど, さっきの,RCAではアートワールドへのデビューとしてのディグリー・ショーに向かって云々っていうのは,翌年もう一度ロンドンを訪れた時の経験も含めての話でね。 僕翌年ね,翌々年になるのかな?彼らのディグリーショー見に行ったんですよ。僕も大学院修了した直後ぐらいになるのかな。当時は小山田さん(本学彫刻専攻教授)たちとアートスケープっていうアートセンターの運営を始めたり,エイズNGOの活動を始めた時期で,ちょうどその頃,London Light House っていうロンドンの街中にHIV(エイズウイルス)に感染してる人のターミナルも含むケア・サポートセンター,プラス,HIV感染者の人達自身や支援者達が運営しているカフェも併設している施設があることを知って。そのLondon Light Houseの視察も含めて,友人達にも会いたいし,ディグリーショーも見たいしって行ったんですけど,その時に見た印象まで,全部含めての話です。さっき言うてた話は。だからRCAで大学院一回生時代を一緒に過ごした友人達が,アートワールドへのデビューの場としてディグリー・ショーを迎えている……で,自分はRCAで悶々としたものを抱えて京芸に帰ってきて,その後大学の外でいろんな人たちと,研究者や社会活動家の人たちとかも含めて交流を持ちながら,アートセンターの立上げ運営や,NGO活動なんかに向かって行く……そんな状況で,もう一回ロンドンで出会った時にまた色々思うところがあったっていう,なんか,えらく長いスパンで振り返った時の感想が,冒頭にした話になってくる。
橋爪:ロンドンには,その後も行かれたんですか?
じんじん:いや,それが最後です。それ以来もう行ってないですね。
高井:私も行ってない。
じんじん:行ってないの?
高井: 近くまでは行ってるんだけど。いつでも行けると言う感覚と,すごい行きたい身体感覚とがあって。でもいざ行くとなったらすごい特別なところに行く気がして簡単に行けなくなっちゃった。なんか不思議な感じなんだけど。
じんじん:せっちゃんは課題に追われてたよね,,でも 課題にちゃんと追われるって凄いよね。
(みんなで高井先生の課題のまとめを見て盛り上がる,その中の一枚を見て)
じんじん:classical language ofって,language of って言葉よく使うよね。陶芸でもLanguage of Vessel,器言語っていうか,日本ではオブジェと呼ばれるようなモノを作ってても,これは「器言語」を用いて作っているっていう解説の仕方をしはる。
高井:イギリス独特の表現なのかな?
橋爪:音楽でもLanguageという言葉はよく使いますね。理論立てて制作をする分野では使うんでしょうかね。
じんじん:RCAにいる時に,マーティン・スミスさんって,陶芸科の先生にインタビューしに行ったんですけど,(だから陶磁器に行けって話なんですけど・笑),一見いわゆる実用の器ではないんだけど,器の言語を用いてオブジェを作ってるんだって説明されて,日本に帰って栗木先生にその話をしたら,「だから君は,なんで陶磁器科に行かなかったんだ。しかもそれが全然今の君には反映されてない」って言われて。帰ってきてからは大学外での活動が,アートセンターとか,クラブパーティー開いたり,活動の冊子作ったりとかが多かったから,なおさら栗木先生は超イライラしてたと思うよね。何をしにロンドンに行ったんだ,せっかく持ち帰ってきたものもあるのに,全く今の君には反映されてないじゃないかね!って感じ。でもさっき言ったように反映はされてるんですよ,おそらく。
高井:でも作品が変わったんじゃない?
じんじん:正直に言うと,RCAから帰ってきてから僕,陶芸作品の制作してないです。少し作ってたけど,あれも言い訳ですよね。もちろん一生懸命作ってたし,言い訳って言ったら当時の自分に失礼で申し訳ないんだけど,でも何かの言い訳な気はするんですよ。陶芸っていうのをもう一度本当に好きになったのは,今やってる野点(のだて)っていうのをやり始めてからですね。それをやり始めてから,あぁ焼きもの嬉しいなって。大学院の修了制作の時も,ある種いい加減な,結局はテストピースみたいなものを作って,修了審査に出したんだけど,最後栗木先生に「木村く〜ん!陶芸を辞めるなよ〜!」って言われて。多分すごい辞めそうだったんでしょうね。先生たちから見たらスケスケで丸分かりじゃないですか。こいつは土触らなくなるんだろうなって。そういう意味ではRCAから帰ってきて院2年生では,陶芸作品作ってないと思うんですよ。行く直前に,ギャラリー鈴木で個展やったりもしたんですけど。他の人見ながら,なんかせなあかんと思ったんでしょうね。
高井:でも素敵な展示だったよ。
じんじん:嫌いじゃないんですよ,その時なりに必死で作ったし。でも一番素直な部分とそれは接続はしてなかったんだろうなって気はしてて。
高井:なんか悶々としてたよね。
じんじん:だから,せっちゃんが,ちゃんと課題に追われてたってすごいよね。
高井:私は英語がそこまでできなかったから,そこをクリアするのがまず大変だった。合評でも先生に何言われてるかわからないし,ほんと半泣きだったいつも。
じんじん:すべき苦労をちゃんとしてるんですよ。
高井:でも実力の差を感じたかな。やっぱりRCAの人たちは一回インターン行ってたりとかして,割と達者な人が多くて。
じんじん:大学院大学ならではの。いっぺん外出てからもう二年間っていう。
高井:私は,オーストリアから来てた4回生くらいで留学に来てた女の子と私が(実力的には)トントンだなって思ってた。言葉の問題もあるし,自分の持ってる設計のスキルも限界あったし。それで全然ダメだっーて,思い続けてた記憶がある。
じんじん:あの短期間でようこんなにやったと思うよね。(高井先生の課題を見ながら)これはメジャードローイングか。測量して描くっていう。
高井:テムズウォーターのコンペティションとか,ホログラムとか,色々オプション的な授業もやったかな。大学院でもデッサンとかやるんだぁとか思ったなぁ。とか...…これは,まぁ,やってきたことをとにかくまとめたもの。(今みんなで見ている課題集が)
橋爪:これも,全部パソコンで作られていないところがいいですね。
高井:そうそう,帰ってきてからシルクスクリーンで(表紙を)刷って。それぐらいしか出力の方法がなかったんですよ。
じんじん:CADかシルクスクリーンか,みたいな感じだったんですか?
高井:CADはまだほとんど無い時代だった。だって卒業してからだよ,Mac使うようになったの。ワープロしかなかった。もちろん世の中にはあったけど,自分のパソコンから出力できるようになったのは,社会人になってから。
橋爪:パソコンが一般に普及し始めたのがWindows95の頃ですものね。
じんじん:そうか,(RCAに行ったのが)92/93年だったものね。
旅行,友人,食事
(他にも当時の写真を見せていただいて,ケンブリッジ旅行の写真などで盛り上がる。)
橋爪:旅行にも行かれましたか?
じんじん:ドクメンタ行ったね。
高井:そうそう,アートフェスティバルに旅行で行くなんて発想が私にはなかったから,じんじんが行くのにくっついて,私も一緒にいったね。
じんじん:面白かったね。ドクメンタ凄い印象に残ってるね。僕が大風邪ひいてて,しかも宿が取れなくて。僕が風邪引いてるくせにちょっと舐めてて,宿なんてすぐに取れると思ってたら,ドクメンタの時って本当に世界中から人が集まるから,まったく取れなくて。ほんで会場の中央広場の横の,ドイツ名物芋の煮っころがしみたいなの売ってる屋台の横のベンチで,それ食べた後,僕本当にマジでへばってて。普段比較的元気な方なんやけど,そん時は本当にちゃんと体調悪かったみたいで,せっちゃん凄い心配してくれてて。そしたら芋煮っころがし屋台のご夫婦が「ウチに泊まってったらええ」って。しかも,鍵預けてくれたんですよ。自分達は別の家で泊まるからここ泊まっていったらいいって。
高井:ねぇ,見知らぬ日本人にですよね。あれは,あんなこと世の中にあるんだあ〜と思った。
じんじん:ねぇ。一晩寝たら元気になってちゃんとドクメンタをゆっくり見れて帰れて。一見さんの,その場で拾った若者二人を,鍵預けて家に泊めるのはなかなか,僕できへんと思うんやけど。
高井:じんじんはしんどそうだったし,私は子供みたいだし,凍死するんじゃないかとか思われたね(笑)
じんじん:心配やったんやろうねきっと。こいつらほっといたらどうなるの?っていう。で,悪さはしなさそうに見えたんだと思うんですよ。泥棒とかにはきっと見えなかったやろうと思うし。
高井:ドクメンタも面白かったね。じんじんの感想を聞くのが面白かった。ドクメンタ見に来た世界中の人と英語で喋ってて,私は,意味わからない……と思いながらも,なるほどなるほどって,一緒に聞いてたのをすごい覚えてる。
じんじん:きっと偉そうなこと言うてたんやろな僕。今絶対聞きたないわ。今聞いたら張り倒したくなるようなこと言うてたんだと思うんですけどね(笑)
橋爪:高井先生は普段からアートフェスティバルに行くっていうことはなかったんですね。
高井: 私やっぱりデザイン畑だったんで,そこまで自分から行くって感じではなくって。それを誘ってもらって一緒に行けたのはすごく勉強にもなったし,いい経験にもなった。世界が広がりました。あぁこうやって,こういうこと語るんだアートの人たちはって。
じんじん:カプーア良かったよね。
高井:凄い良かったね。あれ以来カプーアファンになった。
じんじん:あれを生で見れてよかった。アニッシュ・カプーアって,ものすごく有名な彫刻家で,その方の大規模な生の作品が見れたのはよかった。すごい作品だった。もっと言葉が分かったらよかったな。ヨーゼフ・ボイスの特集もやってたからね。ヤン・フートって人がキュレーターやってる回で,ヨーゼフ・ボイス館みたいなのも作ってて,言葉が分かってたらその時もっと深い部分を感じ取れたんだろうなと思いつつ。でも面白かったですよね。
橋爪:他にもどこか行かれましたか?
高井:湖水地方は一緒にいったんじゃなかったっけ?
じんじん:(他の日本人の友人たちと)レンタカー借りて,行ったね! 楽しんでたな(笑)でも北のほうの風景は凄い印象に残りますよね。
高井:荒涼としているというか,石がごつごつとあって
じんじん:そりゃ「嵐が丘」って言うわってね。楽しんどったなぁ。
高井:楽しんでたねぇ。
橋爪:話伺っていても楽しんだ様子が伝わってきます。そういえば結局どなたにもイギリスの食事のことを伺っていなかったんですが,当時どうでしたか?
高井:美味しくなかったよね。(笑)
じんじん:美味しくなかったですね(笑)最初になんかあのケンブリッジ(旅行に)行った時とかも印象に残ってて,きっと地元では家族で外食しに来る場所みたいな,そういう古いファミレスみたいなとこ行ったんだけど,本当に肉焼いただけで,横にミックスベジタブル的野菜がちょこんって。友達とかにも晩御飯の話とか聞いてると,昨日は電子レンジでお芋をチンして塩かけてバターつけて食べた,みたいな話が本当で。
高井:凄い質素だったね。
じんじん:どこそこのお店が美味しいみたいな話は,一切日常の中で出てこないんですよね。日本やったら,どんなに食事に疎い男性だろうが女性だろうが,あそこのお店美味かったみたいな話になるんやけど,そういうご飯のうまいまずいって話がね,友達同士の間でもないんだよね。
高井:なかった。
じんじん:当時はそうだったんだと思う。でも唯一,温かいカスタードクリームだけは美味しかった。
高井:あーあったね!
じんじん:バタシーは学食ないから,たまに(ケンジントンの)本部棟に行った時,学食にちょっとしたケーキみたいのがあって,あったかいカスタードクリームが勝手にかけられるようになってて,カスタードクリームかけると,どんなにケーキのスポンジがカスカスでもね。
高井:それなりにね!
じんじん:しっとりして,バニラエッセンスの香りも漂うみたいな。あと,バタシーの学校の横にカフェがあって,そこで食べる朝ごはんのベーコンエッグと,トーストと,そこに甘く煮てある豆だかがトゥルッてかかってる,あの,マクドナルドみたいなもんで,くせになるっていうか。甘じょっぱい,卵,ベーコン,油,パン,みたいなのが習慣になるんだろうな。あれは意外と僕,結構はまってた。
高井:えーほんと?へー。そんなんあったかなぁ?私はミルクティくらいしかないかな。美味しかったの。
じんじん:紅茶はどんなとこでも美味しかったね。その代りコーヒーはどこ行っても不味いみたいな。
高井:そうそう。食べ物で美味しいものは無かったなぁ。でも出来立てのラーメンやさんに行ったの覚えてる。ロンドンに初めてできたとかってね。「Wagamama」って名前でね。
じんじん:あったねぇ! 中華街にある中華の麺じゃなくてね。
橋爪:「Wagamama」は今結構大きなチェーン店になってますよ。今カツカレーとか現地では人気ですね。(1992年創業,2020年現在は世界中に150店舗以上を展開)
高井:インドカレーはよく食べたね。カレー食べときゃ間違いないって教えてもらって。
じんじん:インド料理とか,ギリシャ料理屋も連れて行ってもらったね。中華街とかね。
それにしても食事の話はしなかったなぁ。
橋爪:それって面白いですよね。普通文化の話をするとき,食事の話でると思うんですけど。
高井:デイビッドっていう,ちょうど私と入れ替わりで交換留学に来てたガーナ人だったのかな?何回か家に遊びにいった時,アフリカ料理を作ってくれて,お芋みたいなバナナを料理してくれて,そういうことは良く覚えてる。
橋爪:そういう文化交換があったんですね。当時のロンドンは外国のかた多かったですか?
高井:アフリカ系の人が多くてびっくりした。あとクラスに日本人は4人ぐらいいたかな?ちょうどバブルの頃だったもんね。二人は正規の学生で,もう一人は企業からインターンで来てるような人で。
じんじん:彫刻科は日本人は一人もいなかったな。国籍とかあんまり覚えてないなぁ。でもイギリス国内の人が多かった気がする。
橋爪:なるほど。みんな親切でしたか?ちょっと変わった,遠くから来た人がいるという感じだと思いますが。
高井:私はちょっといじめられました。やっぱり日本人が4人も居て,私はボロボロの服装だったんだけど,日本人の留学生はみんなブランドものとか良い服着て幅を利かせてるような感じで思われてて。最初に仲良くなったイギリス人の女の子が,日本人が沢山いるのが鼻についていたみたいで,先生が,このクラスに日本人はいるかな?って聞いてきたときに「lots」て答えてた。それを聞いて,他の日本人から,あれはキツイ言い方なんだよって教えてもらって。他にも,私がプレゼンしていた時に,先生に質問されて,先生の話してることがわからなかったりすると,イギリス人の子がちょっと知ってる日本語を使ってからかわれたりとか……。他にも,英語でもからかわれてたんだけど,微妙な英語はわかんなくて……そこは気づいてないから,日本人の友達にせっちゃん大丈夫?とか心配されたけど,英語がそこまでわかんないから大丈夫って思ってた。
じんじん:僕はすごくかわいがってもらった。それこそ何をしたらいいか分からないまま来て,バタシーでも,一人でもにょもにょしてるから,きっと気を使ってくれたんだと思う。
高井:この人たち(彫刻科)みんな本当に優しくて大人で,じんじんはすごいかわいがってもらってた,ついでに私もかわいがってもらった。
じんじん:翌々年ディグリーショー見に行ったとき,ソフィー・ティルソンって,後で知ったんだけど,ジョー・ティルソンさんっていう有名なアーティストの娘さんで,彼女の家に泊めてもらったりしてね。ほかの子たちも仲良くしてくれて,一人でいたら声かけてくれてね。
高井:それと,日本から友達がいっぱい泊まりに来たりして,大家さんからエクストラフィー払えって言われたの覚えてる。
じんじん:宿屋じゃないんだからってね。そりゃ怒るよね。日本人留学生に部屋貸したと思ったら,入れ替わり立ち替わり人がくるっていうね。
橋爪:全体的に凄いい思い出なんだなって。
高井:やぁ行って良かったとは本当におもってるね。
じんじん:そこに関してはなんの疑問もないですね。
現在と過去,再び振り返って
橋爪:今の活動に関して,RCAでの経験との関係を教えていただけますか?
じんじん:冒頭で京芸はアートが自明ではない場所と言ったのとは矛盾するんですが,僕の中で,京芸に居ればなんとなく自動的に担保されているような気になっていた「アート」っていうものが,大学院入学から修了後にかけて,す〜っと相対化された時期があって,RCA留学がその最初のきっかけだったと思うんですよね。RCA行く,帰って院2,NGO活動する,陶芸辞めるなよって言われる,アートセンターを始める,カフェの立ち上げするで屋台に至る,みたいな。芸大に居ることに頼って,京芸に居るからアートと呼ばれるものを無意識に杖にできちゃうような立場から,いっぺん離れて自分で考え,自分なりの杖を探すっていう,その起点になった経験ですかね。
今の僕はアートと呼ばれるジャンルにはっきりと足をかけて立ってる、片足か両足かわからんけど(笑)。と同時に、いわゆるアートワールドを凄く批判的にも見てる。すべて自分に跳ね返ってくるんですが。いわゆるアートと呼ばれる土俵がとっても観念的で、なんだかつまんなく感じられることも多くて。いや、これはアートというジャンルに限らずモダニズムという土俵の上に積み上げられたものすべてに対してですね。なんかすごく弱っちく感じられて。なんか、もっとごちゃっとした、力強い、おおらかな場所に立てないもんだろうか、もっと自明じゃない地点まで戻ってから自分の足で歩けないもんだろうか、なんて、いまだにくよくよ、じたばたしている……その大切なきっかけの一つだったなって思いますね。
橋爪:高井先生にもお伺いしたいんですが,京芸に戻って教育に携わることになって,RCAでの経験なども還元されている部分もあるのかなと思うのですが,いかがでしょうか?
高井:色んなことがありますが,教員と学生の関係性みたいなことかな。自分が勝手に思ってた学生と先生っていうか,先生は偉い!っていうのが,全く違うという経験をRCAではしたんですよね。RCAに行ってる時期に,RCAの建築科で行われている教育に対して署名活動をしている学生達がいて,つまりは,教授を辞めさせろって。最初は,それがどういうことなのか意味が分からなくて,なんでそういうことが起こるんだろう?って不思議だった。で,話を聞いてみると,彼(教授)のやることが気に食わないみたいな感じで,学生達が自分で学ぶことに対して,凄く主張をしてたんですよね。だから,その時に考えたことは,私が教育に関わるときに,やっぱり根っこになってて,大事にしなくちゃいけないものになってる。自分が上から与えるだけじゃなくて,学生達が望むことや理解していることについて絶えず考えるし,対等なんだなという意識は,そこ(RCA)で生み出されてきたのかなって思います。学生を一人のデザイナーとして,クリエーターとして,同じ立場として接していかなくちゃいけないという今の教育者としての考え方は,その時から始まったかもしれませんね。
橋爪:僕がヨーロッパの大学を出て,日本に帰ってきて一番違和感を覚えたのがそこでしたね。学生と先生の関係,特に修士課程では,先生ともファーストネームで呼び合いますし。お互いがアーティストとして接する中で,先輩としてアドバイスをくれる,というようなスタンすだったと思いますが,日本だと先生の言うことを学生が聞く,与えてもらう,というのがあって。
じんじん:でもそやね,大学院に行っても先生は先生,学生は学生っていう。
高井:デザインは特にそれが強かったね。
じんじん:デザインだけじゃない気はするな。そういう意味では,RCAでは自立した関係性があったのかな。
高井:だから大人扱いされた気もするし,学ぶ側もしっかりせなあかんと思った。今も,学生にもそういう姿勢を求めるし,私も対等でいなきゃと思う。
橋爪:素晴らしいと思います。学生の姿勢という点も大切ですよね。教育に対する文化の違いっていうのは大きいですよね。
じんじん:それはすごいでっかい話になっていきますね。教育とは?っていうか,大学に限りませんよね。「個」をどうするかって話になってきますよね。個人を個人として扱う文化の話になるんでしょうね。
橋爪:もちろんあちらの仕組みが正しいというわけではないのですけど,一長一短で。
じんじん:さっき僕はロンドンで体感したアートワールドっていうのを批判的に語ったけど,同時に,RCAでは「アートは自明である」っていうことを確立するために積み上げられてきた膨大な言葉やモノや時間の厚みみたいなものを無意識であってもすごく感じていたんだと思うんですよ。それは京芸では体験できなかった感覚。日本で比較的簡単に使われちゃう伝統って言葉や概念とは随分と違う感触。そこには大学における教師と生徒の個としての関係性ってことも深くかかわってると思いますよね。RCAでのアートのありようってのは,それこそカント先生以来の,モダニズムの夜明けからの連続性ってのがしっかりあってのものなんだろうな,と。いや「判断力批判」読んでませんが(笑)。そういう意味では,京芸では,RCAで感じた連続性のようなものを感じることは……在学中にはついぞなかった気がする……反発と羨望で言うたら,これは羨望の方なのかなぁ。京芸ではくっきりとしてなかったアートといジャンルの輪郭がくっきりとして見える環境。まあ,何を感じ取ろうとするかという本人の問題ですよね。日本が大急ぎで適応したモダニズム,無理やり移植したアートという概念,そういったものがうまく根付かなかったんじゃないか……なんて,きっと明治以来えんえん繰り返されてる紋切り型の話なんだろうけど。で,一方で,僕が京芸から受け取ったのは,そのはっきりした連続性も感じられない,くっきりしない,もにょもにょした場所にいる間に自分が考え経験したことのもろさ,と同時に,貴重さ,です。きっとRCAの学生達はあらゆる意味で大人なんだと思うんですよね。いや,勝手に名付けたらあかんね,失礼。そう見えてただけかもなぁ。でも,少なくとも僕はおぼこかった,お子ちゃま(笑)。
高井:そう意味では,大学院生同士が交換留学をしているっていうのは,そういう部分をうまく融合させていく?影響しあう?きっかけになればいいなと思いますよね。
じんじん:僕らの翌年RCAから版画で来てた人は京芸が凄く良いって言ってた。RCAにいると息が詰まるし,つらい。この学食前の芝生の広場でみんなとダラダラ過ごす時間が良いって(笑)。それはそれで僕がRCAで過ごした時間と似てるのかもしれない。なにかから解放されて,しばらく考える時間を過ごすっていう場面では京芸は最高だって,彼にとっては。当時
はそんな雰囲気がね。ただ,そんな簡単に今とつなげては語れないよね。当時はまだバブルの残り香のある経済状況だったもんね。巨大な恩恵にはあずかってないけど,時代の影響は絶対にあった。割のいいバイトも結構あったし,なんか大学院になっても切迫感があまりなかったし。今の大学の2回生,3回生の子らが背負ってるプレッシャーと,僕らが背負ってたことは
やっぱり違うんだろうなぁ。まあ,単純に比較してどうこうは言えない,その時代のものとしか言えないけど。
高井:30年もあったらね,時代はかなりかわっていってるもんね。
じんじん:ヤノベさんとか,それこそ現役の現代美術作家として大活躍してる人もいるわけだから,もう一回,真顔で言葉にしてもらうと,交換留学の感想だけではなくて,ヨーロッパと日本におけるモダニズムとアートの位置づけっていう,すごく根源的なテーマに触れざるを得ない,すごく重要なインタビューができるんじゃないかしら?短期の留学で個々人はそこまでちゃんとは触れてはいないかもしれないけど,せっちゃんの建築に対する日本とイギリスの違いってところでも,絶対どこかにモダニズムっていうものを,自分が,自分が基盤としている社会がどう噛み締めてきたかっていう痕跡が絶対残っていて。誰かがそこまで真顔でしつこく掘り下げるインタビューをできれば,きっと。いやいや,別に橋爪さんが全部やれってことじゃないけど,そういう重要なところにたどり着くアーカイブというか,研究なんじゃないかなって思います。
橋爪:これからのアーカイブに対しても非常に貴重なお話をいただきました。お二人ともありがとうございました!
きむらとしろうじんじん
1967年新潟県生まれ。京都市立芸術大学大学院美術研究科で陶芸を学ぶ。
旅まわりのお茶会「野点」は1995年からスタート。広く国内外で絶賛開催中。
1969年岐阜県生まれ。