MONO thingsfrom RCA-KCUA exchange

Interviews 
卒業生が語る交換留学

久門剛史インタビュー

大学院修了後,会社員を経て,現在は作家として目覚ましい活躍を続ける久門さんに,様々な視点からイギリスの経験を語っていただきました。
(聞き手:金氏徹平,橋爪皓佐)

京芸の外へ

橋爪:まずRCAに行こうと思ったきっかけを教えていただけますか?

久門:自分は文化的な環境で育ったわけではなくて,幼少期に親に美術館などに連れて行ってもらった記憶はありません。だから何故僕がこういう仕事することになったのか分からないんですけど,そういう生い立ちが,海外に行ってみたいなとか,交換留学行きたいなっていう動機でした。


橋爪:当時はRCAの他にも選択肢はあったんですかね?

久門:大学院はRCAとボザール(ENSBA)だけやったかな?語学が全然ダメだったけど,英語は好きだったんで。

橋爪:それでRCAに決めたんですね。実際,彫刻専攻に行かれて,どうでしたか?

久門:2005年は,今ほど事前に情報が仕入れられなくて,なにかを思い描いて行ったというより,目の前にあるものを受け入れていくっていう感じでしたね。

橋爪:実際にどういうものを見たり,どんな人と出会ったりしたんですか?

久門:美術の部分にフォーカスすると,教科書に載ってるものの実物を見て驚く経験もありましたけど,自分の中ではそれは大きく占めてはなくって。留学中にベネチア・ビエンナーレに旅行で行ったんです。ピピロッティ・リストというスイスの女性作家の作品を見るのを楽しみにして行ったんですけど。

橋爪:なるほど。どんな展示だったんですか?

久門:修道院の天井に作品が投影されていた展示なんですが,彼女の作品というのは性的なイメージや映像を使ったりするので,僕が行ったときには,たぶん修道院の判断で展示中止になってしまっていて。宗教的な理由とか,性的な理由とかで,展示が実行不可能になっていた現場が結構心に残っています。日本だとあいちトリエンナーレである作品がタブーとされてしまったり,昔で言うとハイレッド・センターの「東京ミキサー計画」とかがそれに関与した出来事かもしれないけど,自分が思っていたアートっていうものが,日本に比べて,社会にしっかり入り込んで,人の生活の営みの中に入って,そこで良いか悪いかが判断されている。すごくディープに入っていってるというのが,やっぱり体験として大きかったと思います。

橋爪:そこが日本と一番違ったところでしたか?

久門:日本は日本でそういうシーンがしっかりあったと思うんですけど。より進んでるなって,社会の中での美術の居場所っていうか。機能してるなって思いました。あと,今でも日本で制作されてる土屋信子さんとか,作品もすごい好きなんですけど,高橋知子さんとか,彼女はターナー・プライズのノミネートまで行ってたんじゃないかな?そういった2005年ぐらいのロンドンで活動されてた日本人は,西洋のルールで,ロンドンのシーンの中で作品を作ってるなってのを肌で感じて。それが見え始めた時に,自分が日本人なんだなとか,日本人としてのアイデンティティーというか,「いろは」で作品を作ってるなってのをすごい意識させられました。

橋爪:なるほど。他には何が印象に残っていますか?

久門:美術以外で大きかったのは,その頃インタラクティブとか,インタラクションって言葉がクリエイティブの中であまり使われていなかった時代に,RCAにはそういった種類の専攻があって,そこに企業を休職して1年間研究者として来てる方とか,パナソニックとかセイコーから,キャリアある方が辞めて学びに来ていて,そういう方々と知り合って,一回食事に連れて行っていただいた時に,自分が知らない話ばっかりされたんです。日本の企業社会の話とか。そこで,アートだけやってるとアートの引き出しはどんどん深くなるけど,それ以外の引き出しに出会う機会はこれからあるのかなと思って。

橋爪:なるほど。

久門:当時は京芸とそれ以外っていう”ものさし”しか無い中で,京芸の先輩や先生方と自分を比べてみると,このまま美術ばかりやってたら敵わないなと思いました。そんなに自分は芸術家として特別な力を持っているとは思っていなかったので。(笑)

橋爪:当時はそう思われていたんですね(笑)

久門:実際今でも素質は無いと思ってるし,天才的な先生たちと戦うには,自分の引き出しを増やす作業を一回人生の中で挟まないと難しいかなと思ったのと,単純に就職して仕事をするのが楽しそうって思えて。その出会いがやっぱり大きかったですね。

橋爪:そういったキャリアのある方々は魅力的でしたか?

久門:魅力的でした。話し方が違った。本当に京芸で学んだことしか表現について話す方法を知らなかったので,「これどう思う?」とか,「何故作った?」とか。でもデザインの人たちは「何故これが必要なのか?」とか,論理的に整理されるまで制作をスタート出来ない。何故なら企業の中では,バジェットが決まっていて,あらゆる効率性を基にしながら時間軸に沿って進めていかないといけない。アートの場合,インプロビゼーションでも作っていけるし,衝動的にも作っていけるし。もともと,デザインの人たちとは話し方が違った。それにすごい影響を受けました。

橋爪:今お話ししてても,アートだけ専門でやってるかたとは話し方が違うように感じますね。説明がお上手で理解しやすいです!

RCAで決心した就職

橋爪:その後,帰国する飛行機の中で,就職することを決心されたと,別のインタビューで読んだんですけど。

久門:帰りの飛行機の中で決心したっていうのはちょっと奇麗な表現すぎますけど,事実といえば事実です。当時はYoutube(2005年創立)なんて流通してなかったのですが,RCAは図書館が充実してて,DVDとかVHSがたくさんあって,特にファッションデザインの,イブ・サンローランとか,ラフ・シモンズとか,アレキサンダー・マックイーンとか,日本の川久保玲さんとかの映像を見たりして,彫刻を勉強してきたことと通じるものがあったりして。

橋爪:なるほど,それで実際に帰国後に就職されたファッション業界への興味もより強まったんですね。

久門:そういうのがきっかけで,現実的にエントリーシートを書いたり,インターネットで,採用情報とか調べたり。エントリーはこういう方式で応募したらいいとか,京芸の僕がいた専攻では殆どの人が経験したことないんで誰も教えてくれない。そこでRCAに来てる日本人のかたに,エントリーどうやってやるんですか?とか聞いたり。ポートフォリオを作るにしても,アートと企業の採用のためのポートフォリオは趣向が違ったので,どういうポートフォリオを作ったかという情報を集めたり。だからその頃から既に二足のわらじ状態だったかな。

橋爪:あちらで出会った日本人のかたがたの影響は大きかったんですね。

久門:大きかったですね。EU圏内の人は学費がすごく安いんですけど,たしかアジア人だと当時のレートで年間380万円くらい。だからアジアから来ている若い人は,裕福な人が多かったけど,僕が出会った,今日話してる人たちは,自分でお金貯めて来たり,自力でグラントを獲得して来てた人たちだから,ちょっと違った。

橋爪:ハングリーさがあるんですね。

久門:そうですね。学ぶことに対する緊張感とか責任感というのは,格段に違いました。

金氏:美術の中でも外でも,違う世界,違うルールがあるっていうことを知ったってことは面白いですよね。

久門:そうですね。あとはコマーシャルギャラリーも印象に残ってます。商業的にやってるギャラリーは日本にもあったけど,ロンドンでは桁が違うお金が動いていたりとかしてたから。

橋爪:なるほど。

久門:作品で生きていくにせよ,就職するにせよ,生きていくためにどう経済面をマネージして行くかっていうのを考えさせられたり。あとディグリー・ショーって,日本でいう卒業制作展は,RCAの学生にしたら就職の最終面接みたいなもんらしくて。RCAに進んで,ディグリー・ショーでギャラリーから声がかかる。かからなかったら,もう……

橋爪:おしまい?

久門:おしまいと言うか,難しい状態になるっていう覚悟があった。そこのギリギリ感っていうか。京芸も,僕の時代は,ギャラリーの人が見に来始めた時代かな?それこそ,金氏先生たちの活躍が大きいですが。京芸にはきっと何かあるはずだと,ギャラリーの人が来るようになった。それでもRCAとは雲泥の差だと思います。ヨーロッパ中からギャラリーの人が来るわけですし。

橋爪:やはり日本と比べると,アートに関わるお金の動きも全然違いますよね。

金氏:他の留学経験者の話を聞いていても,京芸の外の世界のことを知るとか,繋がることは,本当は京芸の中に居ても出来るはずなのに,なかなか視点を切り替えるのが難しかったり。RCAとか留学に行った人たちは,それをきっかけにすることが出来たっていうのは,共通のものとしてある気がしますね。

橋爪:さっき久門さんが,むこうでは社会の中にアートの居場所があるとおっしゃってましたけど,日本だとまだアートはアートという,特殊な場所だという意識があるのかもしれません。変わっていってはいるんですかね?

久門:根本的にやっぱり教育が違う。テートモダンとかに幼稚園とかでごっそり来るんですよね。 それで,幼稚園児がリヒターの絵を見ながら自由にスケッチしてたりしてて。それをさせる幼稚園の先生とかなかなか日本には居ないですしね。

橋爪:それをさせることを,日本では仕事としては幼稚園の先生には求められていないかもしれませんね。

久門:あと,どう作るか,どのようにその作品を実現させるか,っていうHow toと,どう見せるかっていうところまでは日本では結構教えてくれると思うんですよ。私立の大学とかではどうプレゼンテーションしていくかってことまで現在は進んでるかな。でも,何故作るかっていうところが日本では弱くて。

橋爪:なるほど。

久門:最近タイとか,フィリピンとかのアーティストと仕事することがあって,彼らってどう作るかとかよりも,何故この作品を今自分が作るのか,何故今必要なのかっていうのが強くて。当時のRCAの学生もやっぱりそれが強かったように思います。

橋爪:何故作るのか,という志向に至るまでのことなんですが,一度就職されたあと,アートの世界に戻ってくるというのは事前に決めてらしたんですか?

久門:就職決まったと同時に,変な気持ちになって。泣けてきたっていうか,行きたいところに受かったという喜びと,一旦美術とお別れしなきゃいけないっていう悲しさというか。なんとなく自分の中で,プレーヤーとしてはお別れなんかもなって思っていたので……凄い複雑な気持だったんです。

再びアートの世界へ

橋爪:就職されてからは,長期間会社で働いてらしたんですよね?

久門:2007年に修了して,14年の4月に京都に帰ってきたので,7年ぐらい。その間は個人的な作品はほとんど作ってなかったですね。

橋爪:何がきっかけでお仕事を辞めることにしたんですか?

久門:デザインの仕事をしていて,自分が関与したものが莫大な数量で一気に量産され,消費され,廃棄されてしまうことに関して色々考えてしまって。アンディー・ウォーホルみたいに量産の仕組み自体に表現の意味やユーモアがあるなら全く別なんですが,基本的にはアートピースって,やっぱりユニークなもの。彫刻ではオンリーワンが美しいってずっとずっと学んできたし,一つしかないものの強さがあって。それで自分が会社でやってることは正しいのかな?と。

橋爪:なかなか割り切るのが難しそうですね。


久門:でもこれを経験して,「量産」に対するアンチな姿勢を持てたことはいいことだなって。色々な葛藤がある中,その頃は仕事の責任も大きくなり始めたときで,その中で東北の震災が起きて,ちょうど社内プレゼンをやってる時にばーっと揺れたんです。東北に印刷会社とか,紙の会社が多かったんで,自分の勤めていた会社に関係する人たちもダメージを受けたりしました。そこで自分でやってることは正しいのかなとか,都市に集中している考え方とかにも疑問を持ち始めて。で,その会社には3回辞表を提出しました(笑)

橋爪:3回も!

久門:2回は認められなかったんです。会社としてお金が動く仕事を当時は従事していたので,困るというので辞めれなくて。

橋爪:なるほど。

久門:それで青森のレジデンスに応募して,受かったメールをプリントアウトして
社長のとこに行って,次行くところ決まったんで辞めさせてくださいと辞表を出したら,その日に受諾されたんです。

橋爪:社長からすると青森のレジデンスが次の就職先みたいな認識でもあったんですかね?

久門:社長の親心でもあると思うんですけど,現状に疑問を持っているのは認めるけれど, じゃあお前会社辞めたらどうやって生きていくんだ?っていうのは,多分あって。凄く安心した感じで辞表を受け取っていただきました。今でも活動を応援していただいてます。

橋爪:素晴らしい関係ですね。そこからはもうずっとアート作家として?

久門:2013年の10月ぐらいに会社を辞めて一週間もたたないうちに青森に入って,3ヶ月間ぐらいかな。それからまた東京に一旦帰ってきて 2014年の4月から京都で,しばらくは大学とか専門学校の非常勤を週4とか週5で掛け持ちしてました。2015年ぐらいから徐々に発表機会を頂けるようになって,徐々に非常勤の仕事は減らしていったという感じです。

橋爪:なるほど。それまで継続してなにかしら制作はされていたとは思いますが,かなり時間をおいて個人の制作を再開された中で,RCA時代の影響とか,ありましたか?

久門:あるある。震災が3月11日でしょ?確かそのあとに,ロンドンに行ったんですよ。

橋爪:そうなんですね!

久門:自分を試しに行ったって言うか,感動した時って共鳴するというか,肌で感じることが多いと思うですけど,自分をそういうふうに動かしてくれたのはテートモダンやったりしたんです。改めて時間をおいて行って見ると,京芸で教わってた小清水先生の作品があったり,ヨーゼフ・ボイスの作品がそこに以前と変わらず,ポンとあって。やっぱりそういう行き先を示してくれる存在って,アートにしかないなって思いました。ひとつのリセット地点として,ここ(京芸)じゃ無い場所が,イギリスにあって,すごい幸せなことやなって思います。

金氏:留学経験と活動の繋がりが分かって凄く良かったです。他のかたにはあまり聞けなかったんですけど,このアーカイブ・プロジェクトを立ち上げたきっかけとして,30年間色んな人がRCAに行ってるけれど,その蓄積というか,全体として見たときの意味合いだったり,繋がりだったりを,大学として考察してこなかったことがもったいないなという所があって,取り組始めたんですけど,その辺の系譜というか,アーカイブ的に見たときの積み上げだったり,繋がりみたいなことで,何か感じることはありますか?

久門:そうですね。

金氏:久門くんの場合世代的に,上の人も下の人もいるし,経験者が両方バランスよく見えてたりするかなと思うんですけど。

久門:年上の人は,どういった人が行ったかというのは,自ずとRCAに行く前に知るというか。石橋義正さんやヤノベケンジさんであったり。名和晃平さんとか,金氏さんとか,他にもいらっしゃいますけど。でも金氏さんのおっしゃるとおり,何もアーカイブされてなかったから,RCAについて誰に会えとかどこに行けとか,何にも情報がなくて凄い困って。それで僕の次の年にいった,漆の石塚源太と,油画の山口冴子さんに,しおりを作ってあげたんですよ。こないだ石塚源太が,「久門君が作ってくれたしおり,残ってたわー!」てメッセージくれました。

橋爪:それは親切ですね! インターネットで情報がたくさんある今とは違いますね。これからは情報をより蓄積して伝えていければよいなと思います。

近年の活動とイギリスでの経験について

橋爪:近年の活動とイギリスでの経験の関係について少しお伺いしたいんですけど

久門:最初の話に少し戻りますけど,やっぱり自分は日本人やなってすごく思ったのと,うちの父親は,めっちゃ厳しかったんです。僕もそのDNAを受け継いでて,今このカップのラベルこっち向いてるじゃないですか?これ意識してるわけじゃなくて,勝手にこうなるんですよ。(カップの飲み口とロゴが久門さんに対してきっちり正面に,その横に置いてあるスマホもテーブルに対し直角に配置されている)

橋爪:なるほど。

久門:これって自分の個人的なDNAでもあるけど,日本の空港に帰ってきてびっくりしたのが,タクシー死ぬほどきっちり並んでるし,カートもきっちり並んでる。人もめっちゃちゃんと並ぶやん,と。

橋爪:確かにあちらはちょっとルーズですよね。

久門:だからヨーロッパの「いろは」にあわせて作品を作っていくよりかは,むこうの人が出来ないところを勉強し直そうって思いました。京都で言ったら桂離宮に感銘を受けた海外のデザイナーとかとても多いですし,スティーブ・ジョブズとかも,精神的な部分でアジアから影響を受けていると知りました。ヨーロッパから帰ってきたときに,そこが自分の武器になるのかなと思いました。

橋爪:なるほど

久門:例えば,源光庵とか,丸と四角の窓と外の風景が,一年を通じて変わっていく時間軸を含めた,永遠のタイムベースドインスタレーションと言えるし,銀閣寺然り,清水寺も。そういうところは勉強しなおそうとか,その場が持ってる歴史とか文化を,作品に出る出ないに関わらず一回しっかり勉強して,引き出すところは引き出して,そこに何を足していくかっていうのが,なんとなく自分の作品のスタイルになっていったんだと思います。

橋爪:外から見た日本っていう経験が大事な部分だったんですね。

久門:面白いぐらい,みんな日本に影響を受けてて。RCAのアートバーっていう,めっちゃくちゃうるさいバーが学校の中にあって。僕はそこに結構毎日のように通ってたんですが,そこで日本の曲がかかってたりしてて,びっくりしました。

橋爪:そこにはファインアート系の人が集まるんですか?デザインのかたも来たり?

久門:それはもういっしょくたですね。そこでは学生がDJやるんですけど,DJやるとその日のビール代が全部タダになるんですよ。

橋爪:すごい!

久門:ユニオン(学生自治会)でそれ教えてもらって,僕もコンピューターとかで音楽作ったりしてたので,3回くらいDJしました。ほんまにお金がなかったんで。

橋爪:物価高いですもんね。DJやって,反応はどうでしたか?

久門:そこで電気グルーヴとか,YMOとか流してたとき,「おれこれ知ってるぞ!」って声かけてくれたり。

橋爪:テクノは日本のものが世界でもすごい有名ですものね。その頃の友人とは今も繋がりがあるんですか?

久門:RCAで仲良くしていた,松永直っていうセラミックの作家がいて,今も家族ぐるみで仲良くしているんですけど,向こうが日本にきたら必ず会うし,ロンドンに行ったら泊めてもらうし。来週京都に来ます。

橋爪:当時の関係を継続されてるのは素敵ですね。留学には貴重な出会いがありますよね。そういう部分も学生に伝えていければ良いのですが。

久門:やっぱり学生に響かないと。今,なんていうか,学生達を満足させる情報がいっぱいあるから。僕の時はRCAに行けるのなんて1学年にひとりいるかいないかですから。夢のようでした。競争率も高かったし。

橋爪:昔は3人の枠に対して20人くらい応募することもあったみたいですね。今年はコロナのせいもありましたが,応募は2人程度でした。他の協定校も合わせると,10人以上の留学派遣枠があるのに,それが全て埋まるということは今までなかったようですね。

久門:やっぱり肌で感じないと。今ここに学生がいたら,響き方が全然違うし,人間,意外と目を見て目で喋ってるから。最近の学生はよくわからないけど,情報さえもフリックして流していく感覚が強くて,あまり止めて読まないんじゃないですかね?情報の希少価値がどんどん下がっていて。だから情報の残し方も工夫しないと。今の学生にフィットした方法があるといいですけどね。


橋爪:今年,国際交流ウェブサイトを作ることになっていまして,若い世代に伝わりやすいデザイン的な視点を持たないとと思っています。黙ってても伝わるだろうという姿勢ではなかなか(笑)難しいです。

久門:それも悲しいっちゃ悲しいですよね。僕らの頃は黙ってついていってたけど。次の新しい時代を認めつつ,でも怠けてる姿勢は補正しつつ,じゃないと互いに日本の滅亡を招いてしまうっていう(笑)

橋爪:おっしゃるように,互いに認めるっていうのも大事ですし,だからと言って全て任せるというわけにもいきませんしね。

久門:結局やる奴はやるし,そういう奴が世界のどこかに必ずいるから,学生はそれに気づくか気づかないかだけだと思います。教員やスタッフも学生に媚びることなく,そして学生も積極的に未知の世界に飛び込んだほうが絶対に広がるっていう可能性を,ポジティブに伝えられるといいんですけどね。

橋爪:伝えたいですね。

久門剛史
1981年京都府生まれ。京都府在住。2007年京都市立芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。
人生を取り巻く唯一性や永遠性を契機に,音や光,彫刻を用いて個々の記憶や物語と再会させる劇場的空間を創出している。
近年の主な展覧会に「久門剛史−らせんの練習」(豊田市美術館,愛知,2020年),「メルセデス・ベンツ アート・スコープ 2018-2020」(原美術館,東京,2020年),「あいちトリエンナーレ2016」(豊橋会場,愛知,2016年),「東アジア文化都市2017京都 アジア回廊 現代美術展」(元離宮二条城会場,京都,2017年)があるほか,「MAMプロジェクト025」(森美術館,東京,2018年)と第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展「May You Live in Interesting times」(2019年)ではアピチャッポン・ウィーラセタクンとの共作を展示した。2016年には,世界各国で上演されたチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』の舞台美術を担当。KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2019(ロームシアター京都,2019年)にて初の劇場作品を発表。
主な受賞に「日産アートアワード2015」オーディエンス賞,「平成27年度京都市芸術文化特別奨励者」,「VOCA展2016」VOCA賞,「平成28年度京都市芸術新人賞」,「メルセデス・ベンツ アート・スコープ2018-2020」。
http://tsuyoshihisakado.com/
<写真:田村 友一郎>